陶磁器ア・ラ・カルト
■鍋島藩窯とは?
江戸時代、日本で初めて磁器を完成させた肥前鍋島藩は、幕府将軍家への献上品や諸大名・公家への贈答品として使用したり、また自ら城内の用度品とする目的で、直営の「御用窯」を現在の佐賀県伊万里市大川内山に開設しました。そこでは中国景徳鎮窯と同様に、選りすぐりの名工だけを集め、厳選された原材料を用いて、採算を度外視した独特の組織運営(日本唯一の官窯組織)が行われました。このようにして作られた陶磁器を「鍋島」と呼びます。
染付鍋島藩窯図皿
■無鉛上絵の具で安心!
藤右衛門窯では「お客様の安全・安心を最優先」との思いで業界に先駆け、全ての製品に無鉛絵の具を使用しております。現在あらゆる業界で鉛(なまり)に対する使用制限が図られていますが、未だ全面禁止には至っていません。陶磁器業界でも人体に影響がないとされるレベルにまで使用を規制しているといった現状です。私共は伝統の中に普遍性・新鮮さを見い出し、時代が生み出す新しい価値・要請には迅速に応える「ものづくり」をしていきたいと考えています。
上絵の具の原料となるフリット
■有田焼、伊万里焼の違いって?
普段多くの方が「?」な疑問ですが、簡単にお答えすると・・・・・、やきものとしての違いはありません!
あえて区別すると、現代では有田で作られたものは有田焼、伊万里市内で作られたものであれば伊万里焼といったところでしょうか?
その昔、これら肥前磁器は伊万里の港から全国各地・世界へと運ばれました。そのため、現在ではオールドイマリ(古伊万里)と呼ばれています。
明治以降、鉄道が敷かれ物流が変化すると、今度は有田から発送された焼き物として有田焼の知名度が上がっていったのです。
現在の伊万里津の様子
■それでは伊万里焼と鍋島焼との違いは?
まず、前述した通り、現在「伊万里焼」という時は、広く「伊万里市内で作られたやきもの全般」を指す場合が多い様に思われます。伊万里産であることをPRしたい・伝えたいといった場合によく使われるようです。それに対し、現在の鍋島焼とは、往時の鍋島様式に原則のっとった制作工程を踏まえ、その上で個々の窯元の表現アレンジを加えた磁器のこと を指します。
このことから、鍋島発祥の地・大川内山以外の全国各地で鍋島様式を制作されている方もいらっしゃいますし、また大川内山の全ての窯元が鍋島様式の陶磁器を制作している訳でないのが現状です。
秘窯の里・大川内山の関所付近
■鍋島の意匠デザインについて
大きく見ると三つに分類されます。
●絵画からそのまま原画を利用したもの
●中国・南蛮から渡来した染織品の文様を翻案したもの
●具象のモチーフや抽象の幾何学文様などを皿の見込みいっぱいに描いたもの
先人達はこれらの図案を様々な技術(型打ち形成・浮かし濃み・墨弾き・青瓷掛分け等)と組み合わせて「鍋島」の世界を作り上げました。
■茶陶を避けた鍋島
江戸時代、贈答品として大名諸侯が贈り合う陶磁器は主として茶道具、茶陶でした。一方食事の際に使用する食器は、あくまでも日用品で精神的・文化的価値の低い格下のやきものとして見られていた様です。このような中、佐賀鍋島藩は領内の有田・伊万里を通じ、オランダ東インド会社との交易でいち早く高級磁器の美術的価値に気付いたことで鍋島藩窯の着想を得、今日伝わる「鍋島」を完成させたものと思われます。ただその際、茶陶をあえて作らせなかったことは、磁器の持つ特性が茶道に代表される「侘び・寂び」といった美意識には馴染まないものだとはっきり意識していたからではないでしょうか。普段使いを技術の粋を集めて他に類を見ない高級美術品へと昇華させた鍋島藩の選択は今日でも孤高的・独創的仕事として高く評価されています。
■陶磁器と陶瓷器?
日本では陶磁器、陶が陶器、磁が磁器を指し、やきもの全般といった意味で陶磁器と呼んでいます。では「やきもの」「漢字文化」の先生である中国ではどうなのでしょか?現代中国では陶磁器ではなく、陶瓷(タオツー)という語を使うのが一般的です。(陶瓷器でも通じますが・・・)日本と違うのは「瓷」で、これは磁器ではなくやきもの全般を意味する語だそうです。中国で「磁」とは磁州窯(北宋時代、河南・河北・山西省一帯に点在した民窯体系)を直接意味する固有名詞である為、もっと広義な「瓷」を使用したのでは?と考えられます。
個人的には区別・分類できるという点で日本の「陶磁器」の方が便利では?と感じていますがいかがでしょうか? 磁州窯とは、元々河北省磁県で出来た製品の呼称に由来する。
磁州窯とは、元々河北省磁県で出来た製品の呼称に由来する。
■官窯って?
官窯とは、中国の皇帝が運営・管理した宮廷の窯のことです。そこで製造した焼き物は特殊な文様・印章が施され、他には絶対に流通しないものでした。
日本では、平安時代の尾張産の宮廷用瓷器(じき)、江戸時代の各藩の御用窯をいう場合がありますが、それらは製造運営から検品選定後、それら作品のゆくえまでは直接管理してはおらず、その点で鍋島本藩が運営した御用窯が、日本唯一の官窯的性格をもった特殊な窯であると言えます。
■中国清朝が育てた伊万里?
今日の肥前磁器産業の発展は、太閤秀吉の朝鮮出兵の際連行されてきた李参平ら朝鮮人陶工の技術指導が最初の契機と言われています。この頃焼かれたものは朝鮮文化の影響を色濃く残し「初期伊万里」と呼ばれています。
半世紀後の西暦1644年、中国では明朝が清朝によって滅亡します。これが第二の契機です。それまで景徳鎮に磁器を求めていたオランダ東インド会社は「清朝による景徳鎮窯の破壊」「明朝復興を目指す鄭成功一派が行っていた交易を妨害するための海上封鎖」が原因で中国製磁器の購入が困難になったため、その代替品を探していました。一方、打倒清朝を旗印とする鄭成功一派は戦費を蓄える必要性があり、肥前磁器に技術を供与することを条件に幕府・オランダ両者の交易をまとめ上げました。
この17世紀後半期が「輸出伊万里」の最盛期となりますが、作風は景徳鎮の代替そのものでした。
しかしこの時期に学んだ経験によってその後のステップ、日本的な色絵磁器(柿右衛門様式・鍋島様式などに代表される)の創造へと繋がったことを考えれば、中国での政変が間接的ではあるものの肥前磁器のその後の発展に多大な貢献をしてくれたといえるのではないでしょうか?
■磁器制作は分業制作が常識?
磁器の制作、特に色絵磁器に限ったことですが、その制作工程は分業制が常識であることは意外と知られていません。これはその昔中国景徳鎮の製造体制にならったものといわれていますが、より質の高い製品を安定して制作するための体制だと思われます。多くの優秀な職人の手を経て制作されることで、一人で制作するには極めて困難な完成度を保ち、安定的に生み出されることができるのです。